『青べか物語』は、「文藝春秋」昭和三十五年一月号から三十六年一月号にわたって発表された。
山本周五郎は昭和三年夏から翌四年の秋にかけ、一年数カ月を江戸川河口の千葉県浦安町で過ごした。「(当時)新橋の芸者屋の二階にごろごろしていましてね。地図を見ていたら『八犬伝』に出て来る行徳に行きたくなった。そこで出かけたわけですが、途中、満々と水をたたえた川の中に小さな町がベニスのようにみえた。ああこんな所があるのかと降りてしまったのが浦安の町でしてね。」「私が初めて浦粕町へスケッチにやって来たとき、ここでちょっと断わっておきたいのだが、そのころ私は、どこかへでかけるときでも写生帖とコンテを持っていって、その土地の風景を描いたものであった。これは絵の勉強のためではなく、スケッチをすると、その土地の風景の特徴をとらえることができるから」だった。
昭和四年二月「少女世界」の『春をまたずに』といった作品群からいうと『青べか物語』として結実するまでに三十年の年月を費した。『青べか物語』はフィクションかノンフィクションかという論争が「文学界」昭和四十四年十月号、十一月号でかわされたことがある。山本はあるインタビューに応えて、次のように言っている。「ドーデェの『風車小屋物語』をご存じ? あれです。ああいう地方的な気質を描いてみたかった。実際にあったものを素材にするが、それに普遍化を与えよう、といって小説化するには構成というものがいる。それも抜いてしまって、むだなものをできるだけ整理して、極限まで凝縮しようとの試みであったわけです」
以下は、高梨正三から木村久邇典に宛てられた書簡である。
「それから清水君(山本周五郎の本姓)の浦安での居所は四カ所と思いますが、「吉野」とその隣りの汚ない長屋、それに二百メートル程の土手下の一軒家の三ヵ所だけ小生も時々行った事がありますが、最初にいた所がどうもわかりません。愚妻が知っていたと思いますが、土手下の家は一番長くいたのではないでしょうか。夜逃げ同様に帰京してしまったのもこの家で、四、五日誰も気づかなかったのですが、いつも電気がつきっ放しであったために調べて見ると蔵書もそのままで小生が後始末をしたことを覚えています。いよいよ帰京するというので小生の家で清水君が懇意にしていた船員達二、三名も交えて送別会を開きましたが(「日記」では昭和四年二月二日)清水君は大はしゃぎで唄ったり踊ったりしていましたが、余り嬉しかったのか「東京へ帰るのを止めますよ」といって、それから二、三カ月浦安にいたのでした」
『青べか物語』の作者は、その町に同化しながらも、自分が本質的に他所者と見られていることを強く意識している。そして批判的、諷刺的な手法を捨て、自分がしゃべり出すことを極力抑えている。そこに作者のこの町の人々への愛情の深さと、酔うことのない透徹した文学者の目を感ずる。「私」は、また作者によって、最初から無にひとしい、なんの痕跡もとどめ得ぬ一部外者として、細心に措定されてある。こういう「私」と作者との距離感にその一端をあらわしているような意識的な方法は、私どもが読みなれてきた私小説的手法とは質的に異なる。
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青べか物語
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