今川氏滅びる
駿河と遠江二カ国の守護、今川氏真(うじざね)が、駿府今川館を、武田信玄によって逐われたのは永禄11年(1568)12月13日、信玄と家康が相談し、今川領に同時進攻をはかった。氏真は掛川城に逃げこんだが家康に包囲されてしまった。永禄12年(1569)1月12日から5月17日まで、はげしい攻防戦がくりひろげられた。その攻める徳川軍の中に、寝返った(今川から徳川へ)ばかりの高天神城主の小笠原氏興・長忠の父子がいた。そして5月17日、氏真が降服し今川氏は滅び、家康はほぼ遠江を平定した。第一次・元亀2年の戦い信玄は永禄12年(1569)10月、家康が越後の上杉謙信と盟約を結んだことを知り、これに刺激されて翌年の元亀元年(1570)、いよいよ本格的に遠江への侵攻を開始することとなった。元亀2年(1571)2月、信玄自ら2万の大軍を率いて甲斐を出発し、3月に高天神城の南東にあたる塩買坂(現在の菊川市川上)に陣を張り高天神城の攻めにとり組んだ。しかし信玄は、「城外に出ている高天神城の兵たちを城内に押しもどすだけでよい。」とばかり獅子ヶ鼻(現在の菊川市大石)と国安川のニカ所で小競りあいを行なっただけで、三河に進み、伊那を通って甲斐にもどった。真相は、高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、力攻めをあきらめたようだ。こうして第一次高天神城の戦いは終った。このとき城に籠った兵は、城主小笠原長忠以下2,000名といわれる。
第二次・天正2年の戦い
元亀2年の戦いは、信玄による示威行動で、本格的な攻防戦にはならなかった。しかし信玄は、重圧に命じて高天神城を囲ませていて、このときから高天神城は臨戦体勢をとることとなった。)三方ヶ原の戦いの項を参照) 元亀3年におきた浜松城を守る家康と信玄の三方ヶ原の戦いのあと信玄は死去。その後をついだ勝頼は、天正2年(1574)5月、高天神城を狙って、25,000の兵を率いて出陣し、12月には城を包囲。城主、小笠原長忠は早速使いを浜松城に出し、後詰(敵の背後から襲うこと)として援軍を要請。勝頼が全力をあげて高天神城を包囲したことを知った家康は、さらに信長の援軍を要請した。なかなか後詰のこない高天神城では、武田軍の猛攻がくりかえされており、6月11日