戦国期の地域的な結合体。雑賀荘(しょう)・十ヶ郷・中郷・宮郷・南郷の5郷(郷は組・緘・クサリともいわれた)から構成され、その範囲は和歌山市・海南市の大部分を占める。構成員には神官・浄土宗徒もおり、従来いわれてきたような本願寺の門徒組織とは考えられない。1542年(天文11)に河内に進発する守護畠山稙長の軍勢中にあるのが初見で、以後も畠山氏の軍勢として活動している。1562年(永禄5)に、代々室町幕府奉公衆で御坊市に本拠を置く湯河氏と取り交わした起請文などから、1534年(天文3)以降同氏と一揆を結び、「惣国」と称し、守護畠山氏を推戴していたことがわかる。当地には本願寺門徒も多く、守護代遊佐氏に畠山昭高が殺された1573年(天正1)以後、織田信長方(中郷・宮郷・南郷)と反信長方の本願寺に結ぶ勢力(雑賀荘・十ヶ郷)とに分裂し、77年(天正5)信長軍による攻撃を受け、いったんは降伏するが、80年の石山退城まで本願寺を支える主力部隊として活動した。とくに鈴木(雑賀)孫一と鉄砲衆は著名で、宣教師ルイス・フロイスは「軍事に於ては海陸共に少しも根来に劣らぬ事で、其の戦場に於ける武勇によって日本に大名を得た」と記している。同年以後は長宗我部元親と結び、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いの際には、羽柴秀吉の背後を攻撃したため、翌年紀州攻めにあい、太田城(和歌山市)に立てこもるが水責めにされ、降伏し、一揆は解体された。
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雑賀衆と一向一揆
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