数奇からの解放に直向きに歩む人々を描いた力強い物語です。
離脱して生きる術はないという常識、その呪い文句を覆して進化した遥か祖先が垣間見えれば幸いです。
中に数編、上記概要とは関係のない妙な物語も含まれています。
以下に三編の概要を。
『狐と犬』
発症したが最後、見る者を凍り付かせる悲惨な病症を経た末に100%死に至る救いのない感染症、狂犬病。
現代を騒がせる感染症とは比較にならない危険なその病は、日本においてもかつては横暴の限りを尽くしていた。
今日における世界有数の狂犬病清浄国に至るまで、医療現場に併せ、狂犬が蔓延る野外においても『人間vs狂犬』の決死の奮闘が続けられてきた。
だが新たな感染症のその黎明期には、とかく様々なこじつけや言いがかりが横行するものである。
江戸時代は元文年間、一人の少女が得体の知れない奇病に苦しむことになる。
これが病犬による咬傷病であるなど、当時の民衆には知る由もなかった。
『左の襖』
夜な夜な迫真を帯びる隣人の奇声。薄壁を挟んだだけのアパートで、三崎丈の睡眠不足もいよいよ深刻になっていた。
そんな折、郵便受けに一通の、何やら曰くありげに厚い封書を確認する。ひっくり返して差出人を確認すると『沢村初実』と名前だけが書かれている。
郵便の外観通り、個人から個人に宛てたものに違いないはずだが、しかし小学校のクラスメートまで記憶を遡らせても、丈の知り合いに沢村姓の人間はいない。
読むべきか、捨てるべきか。
だが捨てたところで、気の弱い丈は捨てたという事実に縛られて日々苦悩を強いられかねない。
丈は頭の中で『読む』を選択し、意を決して封を切った。
安楽で、心地よい内容でありますようにと願いながら……。
『高崎山へ』
夏。
樫村総一は大分川から別府湾へと注がれる水流に従うように海沿いの工業地帯へと足を踏み入れ、夢想を逞しくさせながら無人の一帯を一人静かに歩いていた。
上空では鳶の可愛らしい鳴き声、右手には陽を反射して眩く光る海、そして前方には堂々たる佇まいの高崎山。
ふとした折に右手の塀から身を乗り出すと、海の手前で連綿と左右に広がるテトラポッド群が目に入った。
「テトラポッドは……危ない」
今は亡き幼馴染の藤宮久美子が、かつて自分の目の前でテトラポッドの隙間から海に呑まれた一幕を総一は思い出した。
もう十年以上も思い出から引き出さないでいたが、これだけのテトラポッドを目にしては、どうにも在りし日々が濃厚に蘇ってくる。
やがて総一は思い出にいざなわれるように禁忌を犯してテトラポッド地帯に足を踏み入れた。
現身の総一と霊体の久美子が、長い空白の時を隔てて僅かに交錯する。
他七編、古今東西を題材にした物語集をお届けします。