徳川将軍家譜代の重臣、三河譜代の名門。始祖は松平家の初代とされる親氏の子といい、三河国幡豆郡境号に住して酒井氏を称した。「松平別流」とするが系図の上の作為を考えられる。何より親氏の存在が不明、酒井郷の未確定などからである。一族雅楽頭系酒井氏と左衛門尉系とも家伝の内容の具体的なるのは天文年間(1532~1555)で、それ以前の実績は空白であり、松平氏創世記の家臣ではあろうが健闘が必要を要する。
家康の三河統一の時雅楽頭系酒井正親(1521~1576)は三河譜代で初めて城持ち、左衛門尉系酒井忠次は東三河の旗頭となった。もっとも忠次の兄忠尚は三河一向一揆で家康に謀反、敗北して駿河に逃げている。江戸幕府成立時伊勢崎藩から前橋藩を領した雅楽頭系酒井忠世が2代将軍秀忠の家老・老中となり、同系酒井忠勝が3代将軍家光の家老・老中・大老、そして忠世の嫡孫酒井忠清も4代家綱の老中・大老を務め、その権勢は「下馬将軍」と称された。幕末には最後の大老忠績がいる。この系統には他に上野伊勢崎藩、安房勝山藩、越前鞠山藩がある。雅楽頭系宗家は忠恭の時播磨国姫路藩15万石、庶家の忠勝家が若狭国小浜藩11万石を
領し明治維新に至った。左衛門尉系宗家は老中など幕府首脳に列することなく、忠次嫡孫忠勝の三男忠恒は出羽国松山藩2万石を領し、忠恒の孫忠休は8代将軍吉宗、9代将軍家重に重用された若年寄りとなる。