黒田孝高(1546年~1604年)安土桃山時代の武将、大名。幼名万吉、通称官兵衛、勘解由。官兵衛自身キリシタン洗礼名ドン・シメオン。父は美濃守職隆、母は明石氏の娘。小寺政職。赤松氏一族で播磨国御着城主の端城姫路城を預かる。父の跡を継ぎ天正の初年頃から織田信長に接近し、1577年(天正5)羽柴秀吉の播磨入国では進んで姫路城に迎え、中国攻略に従った。1578年信長に離反した摂津有岡城主の荒木村重を説得に赴いたが、逆に監禁されて、1579年11月に落城の際に救助された。その後も秀吉に従軍し、1586年には九州攻略の先手を命じられて、毛利氏とともに九州入りをした。翌年秀吉が九州に入ると、羽柴秀長とともに豊前・日向方面を攻め、その戦功豊前国京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐郡内12万石の領知を得た。1589年家督を嫡子長政に譲った。1950年小田原攻めでは、北条氏政・氏直父子に和議の使者として派遣され、開城の際は城請取の役を務めた。北条氏直は和議成立の礼として孝高に室町中期の写本になる貴書「吾妻鏡」を贈り、孝高の死後には長政は遺物として将軍徳川秀忠に献じた。1592年(文禄元)朝鮮出兵に参陣し、8月に漢城に赴いたが、翌年秀吉の不興を買い長政に遺言6か条を残した。慶長の役にも出陣したが、1598年(慶長2)秀吉の死により帰国した。1600年関ケ原の戦いのおり大友義統を石垣原の合戦で破り、安岐城・小倉城を陥落させ、北九州をほぼ平定した。関ヶ原の戦功で長政が筑前一国に移されると、孝高も福岡に移った。山城国伏見で病没。墓は福岡の崇福寺にある。
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黒田官兵衛の群像
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